(新しい生き方)
(ヨハネ15:1)
「わたしはまことのぶどうの木であり,
わたしの父は農夫です。」
イエスを信じた者は,神と深く交わる生活を目指します。
イエス・キリストは,神と深く交わる状況,
方法を「ぶどうの木」で現しています。
また,神と深く交わることは,礼拝となります。
○
霊的な礼拝
(ローマ12:1)
「そういうわけですから,
兄弟たち。
私は,神のあわれみのゆえに,
あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを,
神に受け入れられる,
聖い,
生きた供え物としてささげなさい。
それこそ,
あなたがたの霊的な礼拝です。」
そして,神と深く交わるなら,
キリストを信じる者はとなり人を愛するものになります。
○
互いに愛し合う
(ローマ12:10)
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い,
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
イエス・キリストを信じたものは,
どのように生きたらよいのでしょうか。
イエスを信じたものは,
神と深く交わることが大切です。
神への礼拝,祈りが大切です。
そして,互いに愛し合うことが最も必要です。
神と深く交わること,人々と深く交わることを,
イエスもパウロも求めています。
イエス・キリストは,神と深く交わる状況,
方法を「ぶどうの木」で現しています。
☆彡
イエスはまことのぶどうの木
(ヨハネ15:1-16)
「わたしはまことのぶどうの木であり,
わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな,
父がそれを取り除き,
実を結ぶものはみな,
もっと多く実を結ぶために,
刈り込みをなさいます。
あなたがたは,
わたしがあなたがたに話したことばによって,
もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。
わたしも,あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ,
枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも,
わたしにとどまっていなければ,
実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で,
あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり,
わたしもその人の中にとどまっているなら,
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては,
あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも,もしわたしにとどまっていなければ,
枝のように投げ捨てられて,枯れます。
人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので,
それは燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり,
わたしのことばがあなたがたにとどまるなら,
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば,
あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び,
わたしの弟子となることによって,
わたしの父は栄光をお受けになるのです。
父がわたしを愛されたように,
わたしもあなたがたを愛しました。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし,あなたがたがわたしの戒めを守るなら,
あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。
それは,わたしがわたしの父の戒めを守って,
わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは,
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり,
あなたがたの喜びが満たされるためです。
わたしがあなたがたを愛したように,
あなたがたも互いに愛し合うこと,
これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという,
これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら,
あなたがたはわたしの友です。
わたしはもはや,あなたがたをしもべとは呼びません。
しもべは主人のすることを知らないからです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。
なぜなら父から聞いたことをみな,
あなたがたに知らせたからです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び,
あなたがたを任命したのです。
それは,あなたがたが行って実を結び,
そのあなたがたの実が残るためであり,
また,あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも,
父があなたがたにお与えになるためです。」
わたしたちは聖書にある真実を悟らなければなりません。
ぶどうの木と枝と実の関係は真実を現しています。
すなわち,イエス・キリストが愛の実を持っていると同じように,
わたしたちも同じ実を持つことができます。
これは,禅の悟りのようです。
言葉とこの真実は一つとなります。
神の真実はわたしたちの内にあって真実となるのです。
2013-11-14