朝の光,夕べの雲

キリスト教,聖書の記事

アブラハム,義認 (ローマ4:3)

 

(ローマ4:3)


「それでアブラハムは神を信じた。

それが彼の義と見なされた。」




神は,

イエス・キリストを信じる者を

義とされます。

「義と見なされる」とは,

法廷的な意味,用語です。

 

すなわち法律上の見地から,

正しいとされるときに

使われることばです。

 
 
義とされた人はその罪が赦され,

罪の罰も消されます。

 

私たちが,

イエス・キリストを信じたとき,

わたしたちにキリストの義が与えられ,

神の愛が回復されます。

 

 

 
 

(ローマ4:3 フランシスコ会訳)

「聖書は何と言っているでしょう。
『アブブラハムは神を信じた。』
そのことは,
彼が正しい者とされるに
ふさわしいとみなされた。」
とあります。
 




 

 
 

信仰によって義とされる


アブラハムとダビデの模範

(ローマ4:3-13) 

「 聖書は何と言っていますか。

『それでアブラハムは神を信じた。

それが彼の義と見なされた。」

とあります。

働く者のばあいに,

その報酬は恵みでなくて,

当然支払うべきものとみなされます。

何の働きもない者が,

不敬虔な者を義と認めてくださる方を

信じるなら,

その信仰が義とみなされるのです。

ダビデもまた,

行ないとは別の道で

神によって義と認められる人の幸いを,

こう言っています。

『不法を赦され,

罪をおおわれた人たちは,

幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである。』

それでは,この幸いは,

割礼のある者にだけ

与えられるのでしょうか。

それとも,

割礼のない者にも与えられるのでしょうか。

私たちは,

『アブラハムには,

その信仰が義とみなされた。』

と言っていますが,

どのようにして,

その信仰が義とみなされたのでしょうか。

割礼を受けてからでしょうか。

まだ割礼を受けていない

ときにでしょうか。

割礼を受けてからではなく,

割礼を受けていないときにです。

彼は,割礼を受けていないとき

信仰によって

義と認められたことの証印として,

割礼というしるしを受けたのです。

それは,彼が,

割礼を受けないままで

信じて義と認められる

すべての人の父となり,

また割礼のある者の父となるためです。

すなわち,

割礼を受けているだけではなく,

私たちの父アブラハムが

無割礼のときに持った

信仰の足跡に従って歩む者の父

となるためです。

というのは,

世界の相続人となるという約束が,

アブラハムに,

あるいはまた,

その子孫に与えられたのは,

律法によってではなく,

信仰の義によったからです。」



 
 
 
2015-11-05