朝の光,夕べの雲

キリスト教,聖書の記事

「主のしもべ」の歌(イザヤ53:5)

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(「受難のしもべ」の歌)

 

(イザヤ53:5)

「しかし,彼は,

私たちのそむきの罪のために刺し通され,

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが

私たちに平安をもたらし,

彼の打ち傷によって,

私たちはいやされた。」




この著者のイザヤは,

イエス・キリストの生まれる

500年近く前に

生まれた旧約時代の預言者です。

 

イザヤ書のこの箇所は,

「主のしもべ」

(あるいは「受難のしもべ」)

といわれています。


苦難のしもべ苦難は,

彼自身に理由があるのではなく,

他の人々の身代り,代償でした。


自分自身が何か罪を犯し,

報いとして災いを受ける

というのではありません。


刑罰を受けるべき者たちの

身代りとなって刑罰を受け,

傷つけられ,苦しめられるのです。


苦難のしもべは,

「私たち」に「平安」を与え,

「いやし」を与えるために,

わたしたちの身代りになりました。








(イザヤ53:3-5)

「彼はさげすまれ,

人々からのけ者にされ,

悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ,

私たちも彼を尊ばなかった。

まことに,彼は私たちの病を負い,

私たちの痛みをになった。

だが,私たちは思った。

彼は罰せられ,神に打たれ,

苦しめられたのだと。

しかし,彼は,

私たちのそむきの罪のために刺し通され,

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが

私たちに平安をもたらし,

彼の打ち傷によって,

私たちはいやされた。」



この「受難のしもべ」は,

だれのことでしょうか。


この時代の人にとっては,

イスラエルの民の罪を負って

代償的な死を遂げる

メシア(キリスト)と

みなすことが出来ました。



新約聖書では,この言葉は,

受難に会い十字架にかけられた

イエス・キリストの預言だとしています。


 

(1ペテロ2:21-24)

「あなたがたが召されたのは,

実にそのためです。

キリストも,

あなたがたのために苦しみを受け,

その足跡に従うようにと,

あなたがたに模範を残されました。

キリストは罪を犯したことがなく,

その口に何の偽りも

見いだされませんでした。

ののしられても,ののしり返さず,

苦しめられても,おどすことをせず,

正しくさばかれる方に

お任せになりました。

そして自分から十字架の上で,

私たちの罪をその身に負われました。

それは,私たちが罪を離れ,

義のために生きるためです。

キリストの打ち傷のゆえに,

あなたがたは,いやされたのです。」







「我が為イェス君」

(聖歌437)(新聖歌103)


1.

我が為 イェス君 

傷をば負い給いぬ

かくて我は癒(い)えたり 

罪は我を去りたり


2.

我が為 イェス君 

十字架に死に給いぬ

かくて我は解(と)けたり 

強き罪の罠(わな)より


3.

我が為 イェス君 

御(み)墓に入り給いぬ

かくて我は生きたり 

陰府(よみ)の門(かど)も何かは


4.

我が為 イェス君 

死に打ち勝ち給いぬ

かくて我も勝つを得ん 

罪に陰府(よみ)に悪魔に

 

 


2015-11-21